言葉と音楽

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何日か前のこと、妻と二人で出先から戻る車中の FM ラジオからガーシュインのラプソディーインブルーがながれていました。いつもは聞き流すことの多い曲なのですが、この時ばかりはピアニストの並外れた巧さとゴージャスでジャージーなオーケストラとが相まって、こりゃあ良いわ、いったい誰が演ってんのだろうかと暫し聴きいってしまいました。番組の終わりで知るところとなった、この目の覚めるような演奏をものにしたのは、納得も納得、レナード・バーンスタイン弾き振りによるコロンビア交響楽団の演奏でした。

このレコードをお持ちの方には説明不要でしょうが、手が大きくて巧いピアニスト、それにアナリーゼの効いた指揮、加えてネイティブな言語感満載のゴージャスで良く粘るブラス、で、他の演奏は聴かなくても良いと思えるようなこの上無い名演でした。これを聴いてはじめてこの曲の出来不出来はピアニストの腕は言わずもがな、鍵はオーケストラが握っていることがよく分りました。

近頃はジャンルを問わず日本人演奏家がめきめきと腕を上げ、「コンサートは日本人を聴くだけで十分」こんな言葉をよく耳にします。世界的に名を知られたベテランに混じり、優れたテクニックと海外での活動経験を生かして素晴らしい音楽を聴かせてくれる若い演奏家の数も増えていますし、それら若い演奏家のテクニックの素晴らしさは私も良く知っています。ですから前言の全てを否定はしませんが、鳴り物入りで現れる新進の演奏家達は正確な演奏を披瀝し持てるテクニックに関して不足ない人が多いんだけど、だからって全部が全部それで OK ってのはなんか違うんじゃない、評価が楽観的に過ぎるんじゃないかい、なんてことがままあって今回この放送を聴いてから余計その思いを強くしました。

この曲は以前ピアノ小曽根真・広上さん指揮の京響のコンサートで聴いたことがありました。今回聴いたのとは違いましたがやっぱりこの曲はジャズピアニストじゃなくっちゃと思わせる、雰囲気もなかなかの楽しいステージでした。まあここで比べること自体意味のないことですが、その時と今回ラジオで聴いたのとの違いは伴奏のジャズのむせ返る匂いがしないことでした。

と云う長い前置きでしたが、あるときのインタビューでバリトンのトーマス・クヴァストホフが「ドイツリートを歌うのならせめて日常会話くらいのドイツ語が出来るようでなくてはいけない」と語っていました。それには一理あるなーと一人合点した事があり、今回聴いた曲は作曲も演奏も共にアメリカ人ではありましたが、言葉と音楽と云った観点から同じことが見えたように思いました。ドイツやフランスその他の国の曲を聴いても、それぞれ同国人の演奏がより自然に感じることが多いですし、そんなことから言葉から来る音楽へのアプローチがダイレクトな程「らしい」演奏が成立し易いのではと思った次第です。ドイツリートやロシア歌曲なんかは特に分かり易くて、語学に不明の私でも受ける印象に大きな違いがあります。その人が持つ言語感による表現の違いはネイティブが基本の歌手ほどではないにせよ、器楽演奏者もしかり、指揮者だって例外ではないように思います。

ただこの話の中での言語感と云う言葉は『感』の字が示すように感覚的なもので、平たく云えばタモリ氏が披露していた外国語をいいかげんな言葉で発音だけを似せて、さもそれらしく聞かせてなんとなくその言葉の持つ意味迄連想させいたあれのようなものとか、普通に会話が出来るとか詰まる所は耳の良さでしょうか。語学に精通しているにこしたことはないのでしょうがけっして文法迄厳密に修めているとか、その国の人が話す母国語以上に言語を操れることを指したものではないことをお察し下さい。

アメリカ発祥のジャズも今ではグローバルになりアメリカだけの音楽ではなくなりました。今勢いに乗っているヨーロッパ発のジャズは音も綺麗でメロディアスな美しい音楽ですが、アメリカのジャズが持っていた躍動感と天へも突き抜けるような陶酔感は失せてしまったように感じます。それはあたかもタンレイカラクチと云われる酒の出現で酒本来の味を失い日本酒離れが起こったように、ジャズと云う言葉は使われているものの核となるバイタルの固まりが抜け落ちた異質な音楽に置き換わってしまい、かえってジャズが遠いところに行ってしまったような感じです。タンゴやボサノヴァ等のラテン音楽もワールドミュージックと呼ばれていますが、今やインターナショナルミュージックと呼んでも差し支えないと思います。ジャズに限らずボサノヴァもライブが数多く催され、そこに出演する日本人ミュージシャンも達者な演奏を聴かせます。そんな彼等の演奏は私が最も聴きたいブラジリアンミュージック一番の肝『サウダージ』が希薄なのが残念。

音楽は万国共通の音符で表されているのでボーダレスに理解されるはずなのですが、そこにローカルが顔を覗かせるのは何故でしょう。音楽に表される元の情景や場面・状況・感情は先ず言葉でイメージされ、それを音符へと転写して創り出されます。中にはそれに我慢ならなくてワールドワイド・ボーダレスな音楽を目指し、言葉を介さずに音楽を創り出そうとする音楽家もいるかもしれませんが。世界は限りなく広くてそれぞれの地域には、その地に密着した多様な言葉と文化が厳然とあり、そしてそこに在る言葉はその風土に深く根ざした情感を一番上手く表すように組み立てられています。そのようにして出来た言葉から生まれた音楽は、そのローカルの特徴を的確に表現したものになるのが至極当然であり、それこそが音楽として広く深く愛される要素でもありましょう。

音楽を聴きながら私達は直感的にあるいは無意識のうちにそれをイメージし、言語感たっぷりな演奏であればある程そこから見えてくるその風景や人情の機微に心惹かれたり、情景に対するノスタルジーや憧れあるいは作曲者の於かれた状況を目に浮かべ、心は時空を超えてその音楽の中へ旅しているのです。

ローカル色のない標準語のイントネーションでなされた演奏では地域独特の風情や情景が浮かび難く、感情を刺激されない BGM のようなテクニックだけを聴くだけになり、そしてやがては音楽への興味を失いかねません。

その昔ウィスキーを和食に合わせましょうみたいなコマーシャルがありましたが、あの度数やフレーバーを醤油の味に無理矢理合わせる為に香りも味も薄め、本来の持ち味を殺したウィスキーなんぞ全く飲む気にもなりませんし、もはやウィスキーのようなものとしか表し様がありません。これらウィスキーやワインに限らず日本酒迄もが異種格闘技のように、あえてミスマッチをごり押しして販路を拡げ金儲けの為だけにキャンペーンを繰り広げているのは文化への冒涜とも思えるのですが。おーっと脱線、ついつい愚痴が出てしまいました、どうもすみません。

酒を音楽に置き換えるなんて滅裂な例えをしてしまいましたが、それはさておきあえて申し上げたい。

音楽家の皆さん、そんな愚行に走らず活動はグローバルに、でも演奏はぐっとローカルにお願いします。

そして おいしいお酒で 乾杯!

2013/10/13